第2章 東京における授産施策の展開

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 本稿の目的は、先に述べたとおり、東京において障害者が就労することを目指してどのように行政需要が生じ、中央政府が応じなかった(応じられなかった)行政需要から、地方政府である東京都がいかに行政ニーズとして認知し、障害者就労支援政策を確立してきたかを明らかにすることにある。本章から東京における施策の展開の考察に入るが、その前に障害者就労支援政策と密接な関係にある授産施策について、考察しておきたい。


 

第1節 授産事業のはじまり
 東京府による授産事業は、救貧事業と一体のものとして、明治の最初期から開始されている。
 東京府は、1869年に三田救護所を設立し、廃疾者を収用している(1)。翌年には、東京府立深川授産場が設置させ、困窮家庭の婦女子に機織りの職業を与えた。これが記録に残る最初の施設だという(2)。続いて東京府は、1872年に麹町授産場を設置し物産の加工業などを行うとともに、収容施設として東京府養育院設置を設置している(1)。このように、授産施設は日本の社会事業の中で、130年以上の歴史をもつ最も古い歴史と伝統のある施設形態といえよう。
 授産事業は、救貧事業の一環として障害者に対する対応をしてきた。1901年には、東京市養育院が収用中の女子精神薄弱者に機織をさせて成功している(3)。このように、障害者への就労支援は、救貧施設にその萌芽を見ることができよう。
 大正時代、第1次世界大戦を経て、相次ぐ恐慌や米騒動により、社会不安が高まる。失業者が増加し、授産施策への需要は当然高まっただろう。これに対応して、1919年12月26日、東京市は社会局を設置し、授産場を所管させた(4)。その一端を示すとすると、1923年9月の関東大震災を経て、10月には東京市社会局が『授産事業に関する調査』を行い、少なくとも11団体が1640名の授産を受け入れていた(5)。
 このような授産場は、1935年には「授産職業補導所」として全国で少なくとも143施設が確認されている(6)。これとほぼ同時期、東京紙社会局職業科授産掛の下には、芝授産場、四谷授産場、小石川授産場、浅草授産場、本所授産場、深川授産場の6施設が設置されて、ミシン、毛糸編物、和服裁縫などの科が置かれていた(7)。ただし、これらの授産場の入場資格は、「(1)東京市内に居住する者、(2)年齡十三歳以上で健康なる者、(3)小額所得者と認めらるゝ者並その家族たること」(8)としており、障害者を授産の対象にしていたとは考えにくい。
 戦前期の日本の授産施策は、「生活困窮者の援護対策」を主たる政策課題として行われていた。東京における行政施策としての障害者を対象とする職業授産については、第2次世界大戦後に考察の視点を移したい。

第2節 障害者授産施策の展開
 日本における授産施策の本格的展開は、戦後の社会福祉関連の法規の制定とともに開始される。敗戦とともに失業者や引揚者の職の確保が課題となり、序章で述べた通り、傷痍軍人への保護対策が撤廃されたことにより、授産施策への需要は高まった。
 このような中で、障害者のための授産施設が法的に認知されたのは、1949年12月公布、翌年4月施行の身体障害者福祉法に基づく身体障害者授産施設である。社会事業法に基づく社会事業授産施設、生活保護法に基づく生活保護授産施設に続く、3番目の授産施設の形態である。同法施行を前にして、国立身体障害者更生指導所が国立身体障害者更生指導所設置法に基づいて設置されている(9)。これらの授産施設は、1955年1月実施の授産施設運営要綱に基づき、収容施設として運営されていた。
 身体障害者福祉法では当初、身体障害者授産施設は「身体障害者で雇用されることの困難な者又は生活に困窮する者等を収容し、必要な訓練を行い、且つ、職業を与え、自活させる施設」(第31条)と規定されており、授産を受けるためには施設に入所することが求められた。しかし1967年、同法の一部が改正されて、「対象者の利便」と「施設の効率的運用」等に配慮して、自宅等からの通所による施設利用が認められるようになった。
 次に、1964年には、重度障害者対策の一環として重度身体障害者授産施設が制度化された。同年には精神薄弱者収容授産施設も制度化された。さらに、1972年には労働能力はありながらも企業の受け入れ態勢や通勤事情等のために、身体障害者授産施設から退所できない者に職場を提供する目的で、身体障害者福祉工場(10)が創設された。身体障害者福祉工場は、主として車いすを使用する両下肢障害者を対象にしており、第一号は葛飾福祉工場である。
 また、地域からの通いの授産施設が求められるようになったことから、1979年には身体障害者通所授産施設が設けられ、同法に基づく授産施設のバリエーションが出揃った。
 東京都民生局『民生局業務統計資料』並びに東京都福祉局『社会福祉統計資料』から、これらの授産施設の動向を見ておきたい。
 まず、身体障害者授産施設であるが、1963年度末には公立1、私立3の計4施設あり、定員190名のところ在所人員は180名である。在所者数は、1965年度末には193名(定員240名)、1969年度末には193名(定員390名)となる。
 次に、重度身体障害者授産施設であるが、1969年度末には64名が措置されている。
 精神薄弱者授産施設は、1969年度末には収容3施設に18名(定員不明)、通所1施設に12名(定員50名)である。
 身体障害者福祉工場は、1972年度末には1施設に43名(定員50名)、1974年度末には2施設に80名(定員100名)、1975年度末には3施設に141名(定員150名)である。

 以上、概ね1960年代末までの東京都における法制度に基づく授産施設(法内施設)について考察してきた。ここで問題点を指摘しておきたい。
 法内施設の定員は、障害者の総数に比べて見たときにあまりにも少ないこともさることながら、入所者数(措置数)がそれを下回り大幅な定員割れを起こす施設が見られる。これについては別に考察する必要があるが、何らかの行政と障害者とのミスマッチがあると考える必要があるのではないだろうか。
 この点を踏まえて、次章では認可外の作業所を中心にして東京都がいかに行政ニーズを認知し、独自の政策を形成するに至ったか、考察していく。


第2章 注
(1) 身体障害者雇用促進協会後掲書[1987]p468。
(2) 全国社会福祉協議会全国社会就労センター協議会後掲書p9。
(3) 身体障害者雇用促進協会後掲書[1987]p469。
(4) 東京市社会局後掲書[1936]p131。
(5) 東京市社会局後掲書[1924]p1。
(6) 全国社会福祉協議会全国社会就労センター協議会後掲書p10。
(7) 東京市社会局後掲書[1936]p2。
(8) 東京市社会局後掲書[1936]p11。
(9) 身体障害者雇用促進協会後掲書[1987]p475。
(10) 身体障害者福祉工場は、厚生行政のもとにある社会福祉施設でありながら、最低賃金法等、労働法規の全面的な適用を受ける施設である。福祉工場に働く障害者は労働者として制度的に身分が保障される。



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