第1章 国による障害者雇用政策の形成
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第1節 「身体障害者雇用促進法」制定に至るまで
1950年代になると、障害者をめぐって各種団体が設立されるようになる。 1952年2月には全国身体障害者大会が開かれている。同年7月に結成された、「知的障害者育成会(手をつなぐ親の会)」は、12月に第1回全国大会を開催した(1)。1955年になると、全日本身体障害者団体協議会と全国社会福祉事業大会で相次いで「身体障害者雇用法を求める決議」が決議され、障害者雇用政策の形成にあたって当事者やその関係者の積極的な行政需要が表明される。1956年には、「身体障害者学生の集い」が発足し、就職問題に直面している身障学生自身(2)が、具体的行動を採るようになった。 政府としては、この時期、次のような対応をしている。 厚生省は、1951年12月に第1回身体障害者実態調査を行い、実態把握に努めている。ただ、1955年実施の授産施設運営要綱のように、基本的には施設収用中心の考え方に立っている。 労働省は、1952年に身体障害者の職業による更生の援護を推進するために基本対策として、「身体障害者職業更生援護対策要綱」を策定している。同要綱は、使用者側の協力を強く求めるものであった。1955年には、労働省独自で「精神薄弱児の職業実態調査」を実施している。同年のILO第38回総会の「障害者の職業リハビリテーションに関する勧告」を受けた1958年の職業訓練法の制定により、労働省所管の身体障害者職業補導所は身体障害者職業訓練所に改称された。 政府は、1952年に「身障者の雇用促進に関する重要事項」を閣議決定し、身体障害者雇用促進中央協議会を労働省に設置した。これを受けて事務次官会議は5月に「官庁公共企業体地方公共団体等における身体障害者雇用促進に関する件」を申し合わせ事項にし、優先雇用と採用差別の撤廃を打ち出した。 第2節 「身体障害者雇用促進法」の制定 「身体障害者雇用促進法」の意味について、当時の労働事務次官亀井光は「ヒューマニズムに立脚した画期的な意味をもつ」(3)としている。また、「本法の実施によつて身体障害者の雇用は今後大きな前進を示すものと考えられ、本法は日のあたらない方々に対する福祉国家建設を目ざすわが国の重要課題の一つを果したものといつて過言ではなかろう。」とした上で、「国民各位とりわけ雇用主の方々によつてこの法律の精神と趣旨について十分な御理解が得られることが何より必要」と求めている。 同法について、労働省は1958年の春に検討に着手している(4)。この背景には、世論の動向に加えて先のILOの勧告があった。1959年末に要綱がまとまり、12月1日に職業安定審議会に諮問された。同審議会では、学識経験者、雇用主代表、労働者代表各2名からなる小委員会が設置された。また、これと並行して、身体障害者雇用促進中央協議会においても検討がされ、両機関とも原案通り認めることになった。これを受けて、1960年2月16日に法案提出が閣議決定され、翌日、開会中の通常国会(5)に法案が提出された。 同法は、7月15日に可決成立し、25日に公布、即日施行されている。 「身体障害者雇用促進法」の目的は、「身体障害者が適当な職業に雇用されることを促進することにより、その職業の安定を図ること」(6)である。そのために、次の具体的措置が盛り込まれている。 第一は、職業安定所の機能の強化である。特に身体障害者に対しては、就職後においても作業の環境に適応させるために必要な指導を行う。 第二は、都道府県は、事業主に委託して、身体障害者の能力に適した作業の環境に適応させるために適応訓練を行うこととし、これに必要な経費の一部を、国が補助する。 第三は、国と地方自治体等に対して、身体障害者雇用率を定め、任命権者は雇用率を達成・維持するために、身体障害者の採用計画を作成する。また、民間の雇用主に対しても、身体障害者雇用率を定め、努力義務とした。公共職業安定所長は、必要があると認める場合には、百人以上の労働者を使用する雇用主に対して、身体障害者の雇入計画の作成を命じることができるとした。 第四は、通常の職業に就くことが特に困難である重度障害者に対して、就職の促進が円滑に行われるよう、重度障害者の能力にも適合する特定の職種を政府が定め、この職種に就いては一般の身体障害者雇用率とは別に重度障害者雇用率を定める。 第五は、労働省に身体障害者雇用審議会を設置する。 第3節 「身体障害者雇用促進法」制定による障害者雇用政策の形成 次に、「身体障害者雇用促進法」制定後、1970年代後半までの障害者雇用政策の形成を見ておきたい。(7) 「身体障害者雇用促進法」の制度により、「ようやくわが国も欧米諸国並みに身体障害者の雇用の促進のための法律をもつに至った」(8)。 同法の政策対象は、いうまでもなく「身体障害者」(9)である。そして、雇用者も政策対象に含んでいる。 まず、同法制定後の身体障害者に対する施策展開を見る。その第一は、職業紹介及び職業指導の強化である。公共職業安定所(10)での身体障害者の職業紹介は、身体障害者一人一人ごとにケースワーク的な職業相談を行い、必要であれば適性や職業能力に関する諸検査を行った上で、その者にできる限り適合した職業を選んで就職に結び付けようとしている。身体障害者と知的障害者については、この時期から就職後のアフターケアまで一貫しての支援が行われるようになった。 その第二は、実地訓練とその後の継続雇用の制度化である。身体障害者については1960年、知的障害者については1967年より、都道府県知事が民間事業主に委託して障害者がその能力に適合した職種について、通常6か月、重度身体障害者の場合は1年間の実地訓練を行う。それにより、職場に対する心理的不安を取り除きながら技能を習得させ、一般労働者と同様に働けるようになるまでに職場に対する適応性を高め、訓練終了後も引き続き雇用してもらう。訓練生には訓練手当が支給され、訓練を実施する事業主に対しても都道府県を通じて委託費が支給される。 その第三は、職業訓練の実施と総合的リハビリテーション施設の設置である。公共職業安定所の指示により身体障害者職業訓練校に入校した訓練受験生には、実地訓練同様の訓練手当が支給される(11)。 そのほか、身体障害者に対しては、就職資金の貸し付け、雇用促進事業団による身元保証、通勤用自動車の購入資金の貸し付け、視覚障害者用かなタイプライター及び下肢障害者用工業用ミシンの購入資金の貸し付け、電動車いすの購入資金の貸し付け、公共職業安定所への求職登録をしている身体障害者に対する自営資金の雇用促進事業団による債務保証といった制度が、1970年代中庸までに実施されている。 次に、同法制定後の雇用主に対する施策展開を見る。その第一は、雇用率の法定化である。この雇用率制度は、その後、現在に至る障害者雇用政策の主軸をなすものとなる。また、身体障害者福祉法制定過程から続く強制雇用の要求に対する一つのレスポンスでもあった。 同法は雇用率の設定を施行令に委任している。法制定時から1968年9月末までの雇用率は、次の通りである。 官公庁 現業的機関 1.4% 非現業的機関 1.5% 民間事業所 純粋の民間事業所 現場的事業所 1.1% 事務的事業所 1.3% 特殊法人の事業所 現場的事業所 1.3% 事務的事業所 1.5% ただし、民間の事業所については、努力義務規定であり、雇用率に達しないところで公共職業安定所による雇用促進指導や身体障害者雇入計画の作成を命令が課されたに過ぎなかった(12)。「雇用率に基づき、職業安定所が中心となって事業主に対する身体障害者の雇用促進指導が続けられた結果」(13)、民間の実雇用率は1960年の0.78%から1964年には1.10%に達した(14)。 1968年には、まだ多くの失業中の身体障害者がいる状況(14)を念頭に、雇用率の引き上げが検討され、身体障害者雇用審議会への諮問・答申を経て、施行令が次のように改正された。なお、この過程で現場的事業所と事務的事業所の区分の不明確さが指摘され、これらの区分は廃止された。 官公庁 現業的機関 1.6% 非現業的機関 1.7% 民間事業所 純粋の民間事業所 1.3%(15) 特殊法人の事業所 1.6% 1.5% 雇用主に対する施策展開の第二は、各種の資金援助と税制上の優遇である(16)。 身体障害者や雇用主以外を包含する施策としては、心身障害者雇用促進協会(17)への助成、心身障害者雇用促進月間(毎年9月)の推進など、心身障害者雇用の国民運動の展開が進められた。 また、厚生省は1973年12月に身障就職者に支度金1万円の支給を開始した。 |
第4節 雇用納付金制度の導入とその後の改正による政策動向
前節までで述べたように、障害者雇用政策の根幹を担う「身体障害者雇用促進法」が、1960年に制定されると、労働政策の分野では障害者や彼らを使用する雇用主を対象とする施策展開が広がっていく。ここで、厚生省「第5回身体障害児(者)実態調査」(1970年10月実施)と労働省「心身障害者就労実態調査」から当時の障害者雇用をめぐる状況を考察してみたい。 1970年現在、日本の18歳以上の障害者の総数は、1,314,000人となっている。これは、同年代の人口比で1.79%となる。うち肢体不自由者が約6割の763,000人を占めている。1973年現在では、18歳以上65歳未満の就業年齢層の障害者は884,000人で、そのうち就業しているのは531,000人で、60.0%であった。これは、全人口の就業率71.2%(18)と比較すると、10ポイント以上、劣ることになる。障害の程度別に就業率にすると、軽度の者は71.9%の者が就労しているのに対し、中度の者のそれは63.5%、重度になると45.1%となる。 就業している障害者について、その就労形態をみると、常用雇用が46.3%と全人口に占める常用雇用率63.1%(18)に比べて大きく下回っていることが判る。なお、第2章で取り上げる授産施設の比率は0.4%となっている。 また、労働省「民間事業所における身体障害者雇用状況調査によれば、純粋の民間事業所においては、1973年以降、全体の平均雇用率は1.3%を越えており、法定雇用率を達成している。ただし、1975年では全体の約3分の1の事業所が未達成であり、この傾向は大規模事業所ほど強く、500人以上の事業所では未達成事業所は40.6%に達する。(19) 以上の状況から、次の三つの結論を遠藤後掲書では導く。すなわち、第一に企業における身体障害者の雇用が十分ではないこと、第二に就業を希望しながら職を見出だし得ない身体障害者が多数存在すること、第三に従来のような高度成長を続けることが困難になったことである。 そこで、新たな障害者雇用の政策展開の必要性が認知されたのである。 「身体障害者雇用促進法の一部を改正する法律」は、1975年12月の身体障害者雇用審議会の答申を受け、翌年2月に法案要綱が同審議会に諮問され答申を受けた後、4月16日に閣議決定され、21日に参議院に提出された。5月20日に衆議院で全会一致で可決され成立した。 この間の2月14日には、「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会」が関係団体に呼びかけて「身体障害者雇用促進法改正をすすめる会」が結成された。同会は、全国で国会請願署名運動を展開し、請願・要請行動を繰り返した。(20) 改正法の趣旨は、次の四点である。(21) 第一は、旧法の雇用努力義務を改め、事業主は、一定の雇用関係に変動がある場合には、つまり労働者を新たに雇い入れ、または解雇しようとする場合には、その雇用する身体障害者の数が雇用率以上でなければならないこととし、その法的義務を強化した。また、雇用率制度を刷新強化し、雇用率を重度障害者の加算分(ダブルカウント)を考慮して0.2ポイントずつ引き上げ、事業所単位から企業全体を一つの単位として雇用率を算定することにした。重度障害者(一、二級に相当する者)は、1人を雇用したことで2人を雇用したものと見做すことにした。 第二は、事業主間の身体障害者雇用に伴う経済的負担を調整し、身体障害者を雇用する事業主に対する助成、援助を行うため、事業主の共同拠出による身体障害者雇用納付金制度を創設するものとした。納付金制度の実施主体は、雇用促進事業団とする。 第三は、労働大臣の認可法人としての身体障害者雇用促進協会の設立である。 第四は、事業主に身体障害者の解雇の届出を義務付けたことである。 この改正により、1949年の身体障害者福祉法の制定過程から懸案となっていた強制雇用制度が、納付金制度という言うなれば義務履行手段を伴った形で完成したのである。また、重度障害者のダブルカウント制度は、後に適用が拡大されていく重要な政策手段である。(21) 第5節 小括 前章および本章でみてきた通り、中央政府は身体障害者福祉法の制定時点から強制雇用の必要を認知していたにも関わらず、当初は施設収容中心の施策展開に止どまっていた。しかし、1950年代からの当事者を含む運動の展開は、各種調査によって行政需要の把握を政府に進めさせる結果となった。さらに、ILOの勧告が後押しした結果、1960年の身体障害者雇用促進法の制定に至り、障害者雇用について行政ニーズの認定がされるに至った。 ただ、ここで対応がなされた行政ニーズは、健常者同様の労働時間で一般就労が可能な身体障害者(9)のものに限られた。この範疇に外れた多くの障害者が政策対象とならなかったのである。また、政策の実施方法としては、官公庁が自ら身体障害者を雇用する外は、民間企業に障害者雇用の促進を求めるものであった。民間企業に責を求めるこの傾向は、1976年の雇用率の義務化と納付金制度の導入により強化されたといえよう。 一方で、政策対象から外れてしまった障害者については、施設収容中心の対策が続いていた。しかし、こうした障害者であっても労働の場を求めるのは当然のことで、彼らへの対応が同法制定後も課題として残されたのであった。 第1章 注 (1) 知的障害者育成会は、後に障害者雇用政策において大きな政策主体となる。(第3章以下参照)。 (2) 手塚教授自身も学生時代に山で遭難したことによる中途障害者であり、これをきっかけに障害者雇用問題に携わるようになったと懐述している。(手塚後掲書[2000]p1以下) (3) 堀後掲書・序。 (4) 遠藤後掲書p36。日本社会党は、1959年、参議院に強制雇用項目を盛り込んだ「身体障害者雇用法案」を提出している(大内後掲論文p178)。 (5) 世にいう「安保国会」。 (6) 同法第1条。 (7) 政策の形成過程を考察するためにこのような用語を用いるが、当時は「身体障害者雇用対策」である。 (8) 遠藤後掲書p39。 (9) 「身体障害者」なる用語は、日常生活においてしばしば用いられるが、法的な意味は必ずしも一定ではない。同法では、別表で定められていたが、身体障害者福祉法の範囲とやや齟齬がある(この点については、遠藤後掲書p100以下を参照のこと。)。この齟齬が解消されるのには、1976年の法改正を待たねばならない。なお、1974年には、内部障害者(心臓、腎臓又は呼吸器の機能障害)に雇用率の算定が適用拡大されている。 「障害者」なる概念を法的に検討しようとするならば、それだけで相当な議論になるだろうし、社会福祉論や哲学まで視野に入れて論じたならば無限に限り無く近いものになってしまうであろう。 (10) 職業安定法に基づく労働省の機関。職業紹介、職業訓練等の業務を担い、障害者についても職業紹介、職業訓練の対象とし、1968年以降、その専門職が配置されるようになる。 (11) 1976年で毎月約68000円。(遠藤後掲書p48) (12) 労働省による未達成大規模事業所の公表は、1975年12月に初めて行われた。なお、「公表」が制裁の性格を持つかは議論が分かれる。 (13) 遠藤後掲書p40。 (14) 厚生省「第4回身体障害児(者)実態調査」(1965年8月実施)によれば、就業率は39.3%。 (15) 純粋の民間事業所の事務的事業所については、実質据え置き。なお、純粋の民間事業所の事務的事業所の1963年の雇用率は0.75%で現場的事業所より下回る(大内後掲論文p173)。 (16) 遠藤後掲書p43〜46参照のこと。 (17) 事業主の任意団体として1970年5月に障害者雇用促進協会を前身とする。翌年、社団法人化。1974年5月に全国心身障害者雇用促進協会に改組。1977年3月、労働大臣の認可法人身体障害者雇用促進協会に改組。のちに日本障害者雇用促進協会となり、2003年10月、財団法人高齢者雇用開発協会と合併して独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構となる。 (18) 総理府「労働力調査(1974年)」。 (19) 遠藤後掲書p69〜76の考察に基づく。 (20) 身体障害者雇用促進法改正をすすめる会後掲書p4。なお、同書は改正法による、雇用義務の明確化、雇用率未達成企業からの納付金徴収、重度障害者の雇用の具体化を改善点として評価した。一方、障害者の範囲を身体障害者福祉法の範囲にとどめたこと、納付金の額、身体障害者雇用促進協会の設置については批判した。この趣旨を受けて、日本共産党・革新共同から修正案が提案されている。 (21) 以降の改正について、労働省職業安定局高齢・障害者対策部後掲書[1999]に基づいてまとめておく。 1980年の改正は、議員立法によって行われ、助成金制度の拡充・改善がなされた。次いで、1984年の改正では、臨時行政調査会の第五次答申を受けて納付金業務が身体障害者雇用促進協会に移管されるとともに、身体障害の範囲を政令で定められるようにした。 1987年の改正では、法律名が「障害者の雇用の促進等に関する法律」に改称され、知的障害者、精神障害者を含むすべての障害者に対象を拡大した。また、ノーマライゼーションの精神を盛り込み、基本的理念の規定を設けた。これにより、同法はほぼ現在の形に整備されたといえよう。 1992年の改正は、重度化した障害者雇用対策への要請に対応したものである。具体的には、重度障害者の短時間雇用に対して雇用率・納付金制度を適用するとともに、重度知的障害者へのダブルカウントを定めた。1994年の改正は、市町村の区域に障害者雇用支援センターを設置できるようにすることが主たるものである。1997年の改正では、知的障害者が雇用率の算定に全面的に加えられた。 |
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