序章 雇用政策の形成

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第1節 労働政策前史
 日本における労働政策の萌芽は、どこに求めることができようか。
 労働政策はそれ以外の社会政策(1)同様、近代化から起こる様々な弊害の除去、すなわち、社会防衛を動機として形成されてきた。
 明治政府による殖産興業政策は、富国強兵とともに新政府の至上命題であったが、強力な近代化は労働者に過剰な負担を強いることになる。急速な工業化は、長時間労働、低賃金、婦人や児童の酷使、労働災害などをもたらした。これらは、明治10年代以降、士族の反乱が沈静化すると、労働者の反抗や争議として表面化する原因となった。
 これに対し政府は、治安維持政策でこれに対抗した。1880年制定の旧刑法では、労働争議は今でいう業務妨害罪とされた(2)。さらに、治安維持法の前身である1900年制定の治安警察法では、事実上、ストライキを禁止する規定が盛り込まれた(3)。
 これらの治安維持政策が“ムチの政策”として採られる一方、苛烈な上述のような労働環境から労働者を保護する、いうなれば“アメの政策”の整備は、これよりも大幅に遅れることになる。鉄道や製鉄などの官業労働者の保護施策は先行したが、包括的な民間労働者を保護するための工場法の公布は、明治末期の1911年まで待たねばならない(4)。
 第一次世界大戦は、日本に急激な重化学工業化をもたらした。一方で戦後は大きな不況に見舞われる。また、1919年には国際労働機関(ILO)(5)が創設され、日本も常任理事国に選出される。このような環境の変化から、友愛会が日本初の本格的労働組合として公認される。この経過から、1922年11月に内務省の外局として、現在の厚生労働省(労働省と厚生省)の前身ともいうべき、社会局が創設される。(6)
 こうして、労働者は政策対象の一つとして認知されることになったのである。

第2節 障害者雇用政策前史
 手塚後掲書[2000]では、「近代の日本の障害者雇用施策は,1945(昭和20)年に終結した第2次世界大戦後から始まります.」(p111)としている。確かに労働政策の射程に障害者が捕らえられてきたのはその通りであろうが、それ以前に行政ニーズとして認知されることはなかったかどうか確認しておきたい。
 官業労働者への保護施策が労働政策として先行したことは先に述べたが、この一環として1904年に鉄道保養院が設立され、鉄道従業員公傷者への授産が開始された。また、1923年には、ILOが傷痍軍人の強制雇用を勧告している(7)。
 同年9月1日には、関東大震災が発生した。これによって発生した身体障害者に対して、財団法人同潤会設立されて翌年5月より職業訓練が開始された。その後、政府の援助を受け、1928年に啓成社が設立され、同潤会から肢体障害者の職業指導部門を引き継いでいる。
 傷痍軍人に対する施策は、1931年の15年戦争の突入とともに手厚く行われるようになる。同年には、入営者職業保護法が制定され、軍隊に招集された者が退営後に復職できるように雇用主に義務付けた。1937年、日中戦争(8)に発展すると、内務省社会局に臨時軍事援護部が設けられた。1939年には、国家総動員体制とともに、前年設置された厚生省の外局として軍事保護院に引き継がれている。また、同年4月には政府自らも極力傷痍軍人を採用するものとして、閣議決定を行っている。厚生次官は、これを受けて、道府県知事に対して、道府県、市町村、その他産業組合職員への採用方を通達した。特に町村吏員充実助成費により採用する吏員には、傷痍軍人を採用する措置を採っている(9)。
 戦前においては、これらの施策は救貧施策としての授産の一環に過ぎず、傷痍軍人、官業労働者、震災障害者といった、国家への貢献や国家的災害の被災者にはその寄与に応じて手厚く、それ以外の者に対しては救貧の延長として、実施されていたといえよう。

 敗戦後、1945年10月に厚生省に社会局、労政局、勤労局が設置された。1947年9月には労働省が設置され、厚生省から職業紹介業務等が移管された。これをもって、労働行政が一つの行政分野として認知されたといえるだろう。同年12月には、労働省は肢体障害者職業安定要綱を制定して、障害者対策にも政策展開を始め、身体障害者職業補導所が全国5か所設置された(9)。
 1945年12月、GHQは覚書「救済並びに福利計画に関する件」を発し、「無差別平等の原則」を日本政府に求めた。これによって、傷痍軍人優先の保護施策は終わりを告げ、軍事保護院は廃止される。復員省が担っていた復員業務を除いて傷痍軍人対策は厚生省に引き継がれることになる。
 1947年には、職業安定法が制定された。同法は、1949年の改正によって傷痍軍人を含む身体障害者について職業指導、職業紹介及び職業補導の対象にした。また、1950年には身体障害者福祉法が施行されている。同法によって、収容施設である身体障害者授産施設(国立身体障害者更生指導所)が設置される一方、医療、生活相談、更生訓練等は職業安定法の業務と一体となり、身体障害者の職業援護を総合的に実施する体制が整ったとされる(9)。なお、同法制定の過程で身体障害者の強制雇用制度の導入が検討されたが、時期尚早として見送られている。
 1950年頃には、これらの施策の展開によって、障害者雇用促進政策は少しずつその基本的な姿が形成されてきたのである。


序章 注
(1) 明治政府による社会政策は、1874年公布の「恤救規則」による生活困窮者に対する救貧施策に始まるとされる。
(2) 旧刑法第270条。
(3) 治安警察法第17条。同法は警察の運用によって、労働運動を大きく取り締まることが可能であった。
(4) 1916年施行。
(5) ILOは戦前戦後にわたり多くの勧告を発しているが、それぞれの詳細については労働法の学域に及ぶので本稿では検討しない。筆者は必要に応じて佐藤後掲書[1979]p216以下より示唆を受けた。
(6) このほかに後後掲論文では、内務省と農商務省との主導権争いを指摘している。(p125)
(7) 飯川後掲論文p140。欧州における第1次大戦の戦禍が背景にある。
(8) 身体障害者雇用促進協会後掲書[1987]p473には、「日中戦争の影響で労働力不足。身障者は召集がないため進んで雇用され身障者雇用問題は重要性を失う」とある。そうだとすれば、戦争と云う政策とは無関係なファクターの影響で、政策的な解決がないまま行政需要自体が消滅してしまったことになる。なお、戦時下の障害者の実情については、障害者の太平洋戦争を記録する会後掲書の体験文集が示唆に富む。
(9) 堀後掲書。



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